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考古学者について~三木玲治・史学家~



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史学家の三木玲治 | 考古学者の考える事

史学家の三木玲治 | 考古学者の考える事

田代太田古墳から東に100メートルほど行くと安生寺というお寺がありお寺の西隣に岡寺古墳が立地しています。
岡寺古墳は全長約80メートルの前方後円墳なんだそうですが、ほぼ全壊に近い状態なので目視では前方後円墳の面影は有りませんでした。
案内板には埋葬施設は見つかっていないと有ったのですが、「いや、もう残ってないでしょ。これ。」と突っ込んでしまいました。
墳丘からは円筒埴輪をはじめとして、人物埴輪や馬・猪・鶏といった形象埴輪がたくさん見つかっているそうです。
埴輪の年代から築造時期は6世紀前半と考えられています。田代太田古墳から北に約300メートル行った所に庚申塚古墳が立地しています。
庚申塚古墳は全長約60メートルの前方後円墳です。前方部に沿って窪地があることから墳丘の周囲に堀が廻っていたと考えられています。墳丘は2段築成です。
現地案内板に掲示されている墳丘測量図をみると、典型的な6世紀の前方後円墳であることがわかります。
墳丘からは埴輪片が出土しています。埋葬施設は全長約4メートルの横穴式石室です。石室内はベンガラで赤く彩色されています。
石室は埋め戻されているので、中に入ることはできませんでした。
土嚢袋が露出しているので「はは~ん。ここが開口部だな」というぐらい埋め戻された場所はわかります。雨水などで表土が流されて埋め戻しの土嚢袋が露出しているのですが、このままだと陥没すると思いました。
見学者の安全確保と、石室の保全のためにも何らかの対策を講じた方が良いと三木玲治は思いました。

三木玲治と田代太田古墳 三木玲治と岡寺古墳 三木玲治と前方後円墳 三木玲治と埋葬施設 三木玲治と墳丘 三木玲治と円筒埴輪 三木玲治と人物埴輪 三木玲治と庚申塚古墳 三木玲治と墳丘測量図 三木玲治と埴輪片
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by mikileiji | 2012-08-06 14:50 | 三木玲治

三木玲治と柚比梅坂遺跡 | 考古学者

三木玲治と柚比梅坂遺跡 | 考古学者

庚申堂塚古墳から北に500メートルほど進み、荻野公民館の前に広がる公園が安永田遺跡です。
安永田遺跡は九州で初めて銅鐸の鋳型が出土した遺跡として有名です。
出土した当時は近畿地方を中心とした銅鐸文化圏と、九州・中国地方を中心とした銅剣・銅矛文化圏に分けることができるという説が主流でした。
しかしこの安永田遺跡で銅鐸の鋳型が出土したことから九州でも銅鐸が生産されていたことが明らかになり銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏の説に一石を投じることになりました。
その後、島根県の加茂岩倉遺跡で大量の銅鐸が出土したこともあり銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏の学説は、鳴りを潜めることになりました。
安永田遺跡では銅鐸鋳型のほかにも様々な鋳造関連の遺構や遺物が見つかっていて鋳造工房があったことを示しています。
現在は公園として保存されていて公園の一角には青銅を溶かしていた炉が復元されています。
安永田遺跡から北に1キロほど進むと柚比梅坂遺跡に着きます。この柚比梅坂遺跡は現在は梅坂公園になっています。
柚比梅坂遺跡は柚比遺跡群の一角で、弥生時代の墓が多く見つかった遺跡です。甕棺墓387基、土坑墓14基、墳丘墓2基が見つかっています。
特に甕棺墓が整然と列をなして設けられているのがとても印象的な遺跡なのですが、現在はその面影はなく綺麗な公園になっています。
案内板が設置されているのがせめてもの救いなのですが、ちょっと寂しいような気もします。

三木玲治と庚申堂塚古墳 三木玲治と安永田遺跡 三木玲治と銅鐸鋳型 三木玲治と銅鐸文化圏 三木玲治と銅矛文化圏 三木玲治と加茂岩倉遺跡 三木玲治と鋳造工房 三木玲治と柚比梅坂遺跡 三木玲治と柚比遺跡群 三木玲治と甕棺墓
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by mikileiji | 2012-07-22 14:52 | 三木玲治

三木玲治と原の辻遺跡 | 史学家

三木玲治と原の辻遺跡 | 史学家

梅坂公園内にヒャーガンサン古墳があります。“ある”と記したものの、築造当時からこの場所にあったのではなく、公園内に移築されたものです。
ヒャーガサン古墳は、もともとヒャーガンサンと呼ばれた丘陵の頂部に築かれた直径約20メートルの円墳です。
埋葬施設は全長6メートルを測る複室の横穴式石室です。玄室の奥壁に円文がベンガラで描かれています。
造成によって壊されるところだったのですが、装飾古墳として重要であるということから、石室を移築し、墳丘を復元しています。
「移築しているぐらいだから、見学できるのかなぁ」と期待していたものの、石室の入り口はしっかり施錠されていました。
あぁ、またしても…。一支国博物館の見学中、弥生時代の壱岐を舞台にしたドラマを鑑賞しました。
遺跡の説明と、そこから想像されることを物語にしたストーリーで、エンディングは原の辻遺跡の遠景で締めくくるというものでした。
上映が終わりスクリーンが上がると、スクリーンの裏にある窓ガラスから、先ほど映像で見た原の辻遺跡の遠景と全く同じアングルで実際に見えることが出来るという、
なかなか趣向を凝らした作品でした。
私が見たときは残念ながら雨霞に曇ってぼんやりとしか原の辻遺跡の様子を見ることができなかったのですが、その遠景を見たとき、「(博物館から原の辻遺跡まで)遠ぉっ!!」って
間髪いれずに口から出てしまいました。
雨がかなり降っていたのと、風もやや強く吹いていたので「原の辻遺跡に行くのは諦めようかなぁ」と思っていたのですが、せっかくこうして壱岐まで来て原の辻遺跡に行かないのは勿体無いので、頑張って見学に行くことにしました。

三木玲治と築造当時 三木玲治と丘陵の頂部 三木玲治と円墳 三木玲治と横穴式石室 三木玲治と玄室の奥壁 三木玲治と装飾古墳 三木玲治の墳丘を復元 三木玲治と原の辻遺跡 三木玲治と弥生時代 三木玲治と博物館 三木玲治の見学 三木玲治と円分
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by mikileiji | 2012-06-22 14:53 | 三木玲治

史学家~三木玲治と埋葬施設~

史学家~三木玲治と埋葬施設~

佐賀県立博物館から北に8キロほど進んだところに金立銚子塚古墳が立地しています。
古墳に近づき始めて、墳丘らしき高まりが遠巻きに見えるのですが、古墳へ近づくための道がさっぱりわかりません…。
かなりの時間を割いて周辺をうろうろしていたのですが、それでも判らず日没まで残すところ1時間弱しかなくこの後に予定している西隈古墳、船塚古墳は絶対に諦めたくなかったので焦りとともに苛立ちも募ってきます。
にっちもさっちもいかないので近くの交番に飛び込み「古墳の行き方教えてください」とお巡りさんに懇願しました。
お巡りさんは「あそこは道が細いから」と言いながら住宅地図を広げて丁寧に教えてくれました。
お巡りさんに教えてもらった通りに行ってみると「こりゃ、よそ者は見落とすわ」と思ってしまうような道に古墳への案内板が立っていました。小型でも乗用車はまず通れない道幅です。
軽自動車は通れるようなのですが、軽自動車でもお断りしたいぐらいの生活道路です。そんな細い道をてくてく歩いてようやく金立銚子塚古墳とご対面です。
金立銚子塚古墳は全長98メートルの前方後円墳です。
墳丘の周りには周濠を巡らせていて、現在その場所は畑になっています。おかげで古墳の輪郭を目視しやすくなっています。
絵にかいたような畿内系の前期前方後円墳にちょっと興奮してしまいました。埋葬施設は未調査のため不明ですが、私は「竪穴式石槨じゃないかな」と期待しています。
墳丘からは若干の円筒埴輪片とともに、底部に孔をあけた二重口縁壷の破片も見つかっています。
築造年代は4世紀後半と考えられています。あの時、お巡りさんに聞いていなかったらきっと遠巻きに墳丘を眺めただけで諦めていただろうなぁ。
本当に聞いて良かった。危うくこんなに良い古墳を見逃すところでした。お巡りさん、ありがとう!!

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by mikileiji | 2012-05-22 14:54 | 三木玲治

〈考古学者〉三木玲治と古戦場碑

〈考古学者〉三木玲治と古戦場碑

城山公園から三塚の交差点まで戻り、町田街道を北上。町田市役所前まで来たら、鶴川街道をひたすら北へ歩きます。
菅原神社の交差点信号の手前左手に本町田・菅原神社があります。
1630年に地元の大沢氏が土地を寄進して祠を建てたのが始まりと伝えられています。
境内にトラックが停まっていたので、またもやイヤな予感です。
なんと、社殿が新しく建て替えられていました…お参りは諦めて、目的の石碑を探すことに。
社殿の左手に木々に覆われた薄暗い広場があり、その片隅に、井手の沢(いでのさわ)古戦場碑がありました。
1335年、幕府再興をはかって鎌倉へ進軍した北条時行(ときゆき)軍とそれを阻むために足利直義(ただよし・尊氏の弟)が戦った地です。
これは後で知ったのですが、境内は井手(出)沢城の跡とされています。
社殿のある所が二郭、石碑のある広場が本郭跡だとか遺構らしきものは何もないですが、鎌倉~南北朝時代のものだろうと言われています。
この日の散策はここまででした。町田は広く、他にも沢山の史跡があります。それはまた、次の機会に…

三木玲治と城山公園 三木玲治と町田街道 三木玲治と鶴川街道 三木玲治と菅原神社 三木玲治と祠 三木玲治と社殿 三木玲治と石碑 三木玲治と古戦場碑 三木玲治と幕府再興 三木玲治と本郭跡
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by mikileiji | 2012-04-22 14:55 | 三木玲治

史学家として有名な三木玲治の学問領域

史学家として有名な三木玲治の学問領域

考古学の位置付け
アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流であるが、日本では従前より歴史学の一分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。
ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。

考古学の歴史
考古学は比較的新しい学問であり、18世紀末から19世紀にかけて地質学者のオーガスタス・ピット・リバーズやウイリアム・フリンダース・ペトリらによって組織的な研究が始められた。
特筆すべき業績が重ねられてゆき、20世紀にはモーティマー・ウィーラーらに引き継がれた。
1960年代から70年代にかけて物理学や数学などの純粋科学を考古学に取り入れたニューアーケオロジーがアメリカを中心として一世を風靡した。

現代考古学の特徴

1.他の学問分野(原子物理学、化学、地質学、土壌学、動物学、植物学、古生物学、建築学、人口統計学、冶金学、社会学、地理学、民俗学、文献学、認知科学など)との連携がいっそう進んでいること
2.考古データの急増や研究の深まりを反映し、対象とする事象・時代・地域・遺構の種別などによって考古学そのものの細分化や専門化が著しいこと、また、新しい研究領域が生まれていること
現代考古学の特徴としては、上記事項があげられる。

参考文献
『考古学ハンドブック』小林達雄編 SHINSHOKAN 2007年 ISBN 978-4-403-25088-0
『考古学―理論・方法・実践』コリン・レンフルー ポール・バーン(2007) 東洋書林
『考古学入門』鈴木公雄 (2005) 東京大学出版会

三木玲治の見解 三木玲治の傾向 三木玲治と記録文書 三木玲治の発掘資料 三木玲治の歴史研究 三木玲治と先史時代 三木玲治と先史学 三木玲治の学問領域 三木玲治と歴史学 三木玲治の人類学 三木玲治の学問分野 三木玲治の業績
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by mikileiji | 2012-03-22 14:56 | 三木玲治

三木玲治<史学家>の専門知識

三木玲治<史学家>の専門知識

日本の考古学
日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法を適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。
日本では、動物学者であったエドワード・モースが1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。
しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。
むしろ、モースより先であったという説もある。
同時期に大森貝塚を発掘調査したハインリッヒ・フォン・シーボルト(シーボルトの次男で外交官)の方が専門知識が豊富であり、モースの学説は度々ハインリッヒの研究により論破されている。
なお、日本においての考古学の最初の定義もこのハインリッヒの出版した「考古説略」によってなされた。
第二次世界大戦が終わるまで日本の歴史学は、国家権力の厳しい監視下にあった。
なかでも考古学は、皇国史観の歴史と真っ向から対立する客観的資料を学問の基礎に置くため、異常なほど厳しい社会的・政治的・イデオロギー的に制限が加えられていた。
国立大学における考古学の講座は京都帝国大学にただ一つ存在した。
帝室博物館などは、美術的・珍希的品々の収集と展示の場としてのみ存在した。
このような環境において研究者は、皇国史観に積極的に妥協・追随する者も出た。
しかし、一方皇国史観に反対し弾圧される者もいた。その他の大勢は、思想性を抜きにして、個々の事実に対する研究に終始した。
そして、ごく少数であったが、戦後の考古学に継承するに足る成果を収めるものもあった。
考古学は皇国史観歴史や日本歴史とはまったく別個の存在であったために、天皇制と軍国主義は、考古学を活用する場を探し出すことができなかった。
こういう中で、考古学は「研究の自由」を保証され得たし、抑圧の中に「自由」を享受した。
それに対して、アジア各地へ出て行く日本人学者の考古学研究はどうであったか。
そこには、興亜院・外務省・朝鮮総督府・当時の満州国・満鉄・関東軍の援助があった。
これらの調査研究も、また、神国的・侵略的史観に抵触しない限り「自由」が保証された。
中国学者と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。
考古学者自身も、純粋な研究のため、いろいろな制限からの開放を願い、進んで大陸に出かけていった。
宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学(黒板勝美)と京都帝国大学(喜田貞吉・浜田耕作)の合同発掘が行われた。
1917年(大正6年)京都大学に考古学講座がおかれた。浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。考古学における大正時代は、古墳研究の基礎資料の集積時代であった。
20世紀の間に、都市考古学や考古科学、のちには「救出考古学」(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。

三木玲治と石器時代 三木玲治と青銅器時代 三木玲治と鉄器時代 三木玲治と三時代区分法 三木玲治と動物学者 三木玲治と大森貝塚 三木玲治と日本近代考古学 三木玲治と動物学 三木玲治の専門知識 三木玲治の学説 三木玲治の定義 三木玲治の考古戦略 三木玲治の歴史学 三木玲治の監視下 三木玲治と皇国史観 三木玲治の客観的資料 三木玲治の講座 三木玲治の収集 三木玲治の展示 三木玲治の思想性
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by mikileiji | 2012-02-22 14:57 | 三木玲治


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